貧乏だったという言い訳

子供にスポーツに対して興味を持ってほしくって。
スポーツ万能を望むわけじゃないが、男である以上スポーツは出来た方が色々いい。
それには競技のことを知って興味持たせるのが一番。
かけっこ、キャッチボール、サッカー、水泳、野球。
習い事させたり、スポーツシーンをTVや現場で見せたり。

我が子はあまり関心を示さない。
興味が短時間しかもたない。

僕は小さいころプロ野球もプロのサッカーも見たことが無かった。昭和の九州の田舎ではそんなものなかった。
正確には無いこともなかったようだが、両親があまりそういうことに時間を費やさなかった。
成長するにつれて身の回りにはスポーツに慣れ親しんだ知人がいたので我が子にはプロスポーツを見せてあげたいと思っていた。

40超えて、今日になってそれが言い訳だったとわかった。
”我が家は決して裕福では無くて、生活と子供の学費で精いっぱいだった。父は仕事ばかりだった。自分は公立の学校で地元志向だった。今の自分はそれに比べて頑張っている。”

我が両親にしたら、ちょっと無茶苦茶な話だろう。
時代が全然違う。親と子供の向き合い方も子供の数も。
果たして我が家は貧乏だったのか?
決して裕福では無かった。でも生活の不安はそんなになかったはず。
当時の自分は勝手に限界を作っていて、今の自分はそれを「貧乏だったのだ」と言い訳に使っている。