貧乏だったという言い訳

子供にスポーツに対して興味を持ってほしくって。
スポーツ万能を望むわけじゃないが、男である以上スポーツは出来た方が色々いい。
それには競技のことを知って興味持たせるのが一番。
かけっこ、キャッチボール、サッカー、水泳、野球。
習い事させたり、スポーツシーンをTVや現場で見せたり。

我が子はあまり関心を示さない。
興味が短時間しかもたない。

僕は小さいころプロ野球もプロのサッカーも見たことが無かった。昭和の九州の田舎ではそんなものなかった。
正確には無いこともなかったようだが、両親があまりそういうことに時間を費やさなかった。
成長するにつれて身の回りにはスポーツに慣れ親しんだ知人がいたので我が子にはプロスポーツを見せてあげたいと思っていた。

40超えて、今日になってそれが言い訳だったとわかった。
”我が家は決して裕福では無くて、生活と子供の学費で精いっぱいだった。父は仕事ばかりだった。自分は公立の学校で地元志向だった。今の自分はそれに比べて頑張っている。”

我が両親にしたら、ちょっと無茶苦茶な話だろう。
時代が全然違う。親と子供の向き合い方も子供の数も。
果たして我が家は貧乏だったのか?
決して裕福では無かった。でも生活の不安はそんなになかったはず。
当時の自分は勝手に限界を作っていて、今の自分はそれを「貧乏だったのだ」と言い訳に使っている。

妻の入院と両親の助け

妻の手術のため二泊三日入院となった。10月末に急に決まった。

妻の両親は別の孫面倒見てるので、ずっとの助けは無理。
妻の実家に厄介になるのは、長男の幼稚園をしばらく休ませる必要あるから避けたい。
僕の両親に急遽上京してもらうことにした。

11/1〜11/11まで居てくれた。
最後の1日ぐらい観光案内したかったがやはり急に帰った。
10数年前両親来たときははとバスとか箱根に行かせて案内はせず。
その次は仕事の都合で妻に任せたまま。
今度くらいはと思ったが今回も「東京だよおっかさん」は叶わず。

二人とも70を越え足元も目も悪くなってる。
仕事の都合をつけ羽田空港で見送りだけははたした。
二人揃っての上京観光はこれが最後だろうなと小さな背中を見送った。

ラグビー日本代表

三勝一敗で堂々の帰国。
僕も今回の活躍でラグビーに京見を持った一人。サッカーでもなくアメスポでもない競技の世界を知った嬉しさ。

とはいえベスト8国の顔ぶれは凄いみたい。
日本がこれらの国に肩を並べられるのにはまだまだ時間がかかりそうだ。

ジャージは赤白に戻って良かった。
soccerもこのパターンの方がいいな。

アカシア

戦後70年、SL模型見たこと、各出版ブームで僕のなかで回顧ブーム。

昭和の大連について無性に知りたくなった。
祖父が10代で渡り家族を持ちほとんどを失ってしまった街。

東京に転勤して意外と古いものに接する機会が増えたことと、家族が出来たことと昨今の世の流れからだろうと思う。

祖父は20年も前に亡くなってる。
大連のことはほとんど聞いたことがない。

戦争責任の話しは別にして、当時の青年(祖父)がどんな思いで大陸を見ていたのか、
調べて思いを馳せてみようと思う。

熱せいけいれん

転勤して初めて次男のけいれんが出た。
妻と二人で外出中。
幸い直ぐに救急車を呼んでもらい、病院に行け、その後の経過も問題無し。

妻の話聞くと、冷静に対応したと思う。
僕一人だったり、運転中だったり、長男も一緒だったり、遠く外出中だったらもっと大騒ぎしてたと思う。

初のけいれんも夏だった。
気を付けてあげないといけない。


そんな中笑えるエピソードを妻から聞いた。
この話はいつかまた。